トンネル貫通の記念品 =志野筍絵=  あったらいいなGallery Gallery  HOME
貫通石
東海環状自動車道 久々利第3トンネル 貫通記念品
トンネルをイメージして作りました。
 特別注文生産品

志野筍絵

 昭和5年 当時、志野・織部は瀬戸で焼かれていたと言う事が定説となっていた。故・荒川豊蔵氏(後に人間国宝に認定される)が志野は美濃で焼かれていたと言う仮説の元、久尻・大萱等窯跡を捜し歩いていた時、四月十二日月夜に光るモノが有りそれを拾った四月九日に魯山人と共に名古屋関戸家で見た『志野筍絵茶碗』に描かれていたのと同じ筍が描かれた『志野筍絵茶碗』の破片だった。以後、発掘調査を繰り返し、志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒が美濃で焼かれていた事が実証された。

 久々利の近くでは弥七田織部が焼かれていました。本来ならば弥七田織部が適当かと思われましたが、今回、現場監督の意向で物語性のある大萱久々利の近くにあるという事で志野筍絵を付けをしています。

余談ですが・・・
 安土・桃山時代に花開いた織部焼は、古田織部の死後急速に衰退し魅力ある織部というにはあまりにも程遠い焼き物になって行った。織部焼を生んだ連坊式登窯は徐々に日用雑器を焼くようになっていった。
 しかし、あの緑釉への憧れはその後も陶工たちの心から離れず江戸時代の後期には、美濃に隣接する尾張(愛知県)の瀬戸焼で復興する。以後瀬戸で焼かれた織部を、復興織部と呼ぶ。海外に渡った織部焼この時期のものが多い。


貫通石(別名:安産石)

安産の石の由来
 その昔、神功皇后三韓征伐の砌(みぎり)、彼の地に於て敵を攻めあぐみ、ふと間道に洞(ほこら)あり、三日三夜不眠の甲斐ありて洞を突貫(つきぬき)、敵の背より攻め大勝を得たという。その記念にと貫通点の石を持ち帰りて角鹿(つのが)の地に上陸、御自ら産気づき記念の石を枕辺にはべりたるところ、すこぶる安らかにして男子出産し給う。
 これにより隧道(ずいどう)貫通点の石を尊ぶ習いありて安産の石と称す。


 今日では最後の発破地点の石ということで「難関突破」「初志貫徹」という意味から入試のお守りとするなど、その石を持つ人それぞれの思いが託されるようになっています。

 一本の隧道を貫通させるには、永い年月を掛け、地球誕生以来、 人類誰もが足を踏み入れたことのない地中深き神聖なる大地の 中、隧道掘削において、自然の地圧に命を懸けて戦い抜いた男 達が、心ある女に命を懸け娶り、子を産ませるに神聖なる隧道 の貫通石を持たせた処、男の苦労の想いが込められたせいか無 痛分娩の安産で強靭なる子を授かったとさ。これ以来、隧道貫 通石は、婦人の宿命である分娩の苦痛を婦人に替わり、男達が 隧道掘削により苦痛を全部背負い汗と水に流したといわれ、安 産守護石になったとされている。
これより隧道貫通点の石を安産の石と称し珍重されています。 石(意思)を貫くことから合格祈願や結婚記念などに持つ人も います。


 


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